昭和41年10月24日 夜の御理解



 教祖は日に日に生きるが信心なりと、教えておられます。難しい言葉ですね。日に日に生きるが信心なり。日々私共がもういうなら、刻々生きた神様の働きを、身近に心に身体に感じて行く所に、有難いという心も勿体ないという心も、恐れ多いという心も頂く事が出来る。そういう有難い勿体ないという生き方。そういう生き方を教えて下さったのが、教祖の神様です。
 ですから成程日に日に生きて行くと言う事が信心だと言う事が分かります。ただ誰でも毎日こうやって、お生かしのおかげを頂いておるから、その事が信心かというとそうじゃない。日に日に刻々それこそ、目ま苦しいまでに、私共の周辺は変わらない様であって変わって行っておる。それは丁度汽車の旅をするようなもの。車窓から見る所の風景というものは、もう刻々変わっていくのである。
 そのさらなものをさらな心でキャッチする。さらな心で見るから、それがいつも生き生きとしたものに成って来る、生き生きとした喜びに成って来るのです。久留米の初代は、この世は、徳の船に乗って渡れと、こう仰っておる。私はまぁここでお知らせを頂きます時に乗り物は徳とこう仰るが、私は天地に繋がるひとつの軌道というものを、教祖の神様は作って下さったと。その軌道にある所の、なら椛目なら椛目という、お広前の汽車があるようなものです。これに乗っておる訳です。
 だから私共はまっしぐらに天地の神様の、金光大神が、辿られた所の御境地に向って、私共は日々進んでいかなければならん。成程信心しておれば、おかげを受けると言う事は、徳の船なら徳の船、徳の車なら徳の車に乗っておるから、それが行きよるですけれども、その行く道すがらの事が日に日に生きるが信心なりです。どうでしょう汽車ん中は真っ暗である。窓は締め切ってある。この車はどこに行きよるのやら、右に行きよるのやら左に行きよるのやらも分からない。
 それにあの抑留された方達が話しておりますように、汽車に乗せられる。貨物車の所謂窓の無い、この右に行っておるのやら、左に行っておるのやら、どこを走っておるのやらも分からない。もう本当に暗澹たる私は旅だとこう思うですね。信心しておってもねそう言う様な、私は信心しかしとらない人が大変多いと思う。暗澹たる毎日おかげ頂ききる事は頂きよるじゃろか。淋しいそれで、おかげだけは頂いて行きよるけれども、そうした生き生きした、所謂日に日に生きるが信心なりと言った様な、力強い生き方。
 そういう力強い生き方が出来ていない。私共小学校の時に習いました唱歌に「汽車の旅」というのがある。「今は山中今は里、回る灯篭の絵のように」と言う様な文句がございますですね。それから「思う間もなくトンネルの、闇をくぐって広野原」と言ったような文句も御座いました。私共が例えばそういういうなら汽車の旅をしておるようなもの、信心さして頂いておる者は。
 自分の心の窓が開いておらなければ、自分の心の中に光がなからなければ、それこそ真っ暗いトンネルに入った時に、それこそ暗澹たる思いをしなければならない。汽車には乗っておるけれども、心の窓が開いていないから、いわば外の景色が見えない。どこを走っているのやら無我夢中である。これでは信心の喜びというものはない。ただおかげを頂くからおかげを頂くことも不思議なことじゃある。おかげを頂いたから有難いと、そん時思うだけであつて、後はまた不安な心配な毎日を過ごさなければならない。
 私今日御神前に出らして頂きましたら、その汽車が走ってるんですね。所謂椛目というそのお広前の、椛目という徳の汽車が、金光大神の軌道に沿って走っているような感じなんです、心眼に頂くのは。所がその窓にですね。ずっとその車窓にみすが降りておる訳です。みすがそれに椛目の信者一同がいっぱい乗っておる訳なんです。その所々のそのみすがこう上がっておる。
 はぁ椛目でもこれだけ沢山信心しておるけれども、車窓が見えるというより、車窓から外の景色が見えると言う様なのは、数多くはいなと言う事を、私は感じた。所謂日に日に生きるが信心なりという信心はしていないと言う事。日々が有難いと所謂日々が生き生きと更な心。例えば農家の方が畑に出る。それがもう当たり前の事。私共がここに御結界にこうして奉仕さして頂くが、もう本当に御結界につく度にそれを思う。更なものを感じるです。職場にそれがなからにゃいかんです。
 生き生きした心を持ってです、矢張りその私共の職場に生き生きした神様の働きを、そこに目の当りに見る所の、実感というものがなからなければ、日に日に生きるが信心なりと言う様な、力強い信心生活は出来ません。私が難儀な困ぱくをしております時、所謂修業の真最中であります時にです。沢山な借金を持っている。それでも私がまあ人から見たら、本当に信心気違いじゃなかろうかといわれる位に、一生懸命にならして頂いてるから、親兄弟まで心配をする。
 借金を負うとる人からは、もうあの人はあげん信心しよってけれども、借金も払うてじゃなかと言った様な悪口を云われる。ためには矢張り自分の心までも汚す。そう言う様な或る日でした。神様からみすを奉れ、みすを奉れというお言葉を頂いた。私は意味が分からなかった。私がここにもうぼちぼち、人が助かるようになってから、もう暫くしてからであった、このおかげを受けたのは。だからみすを奉れと言う事が分からんでおった所が、神様から頂いた。
 私のここの神愛会の綱領の中にあります。みすを奉るお道を汚す、信心を汚す心配をさすこの三つの「す」を奉れとこういう。私がここで借金払いが終わった時でした、今ここに掛けておる、みすのお供えがきましたのは。ここに沢山な病人の方達が、ここで修業しておるあの時分でした。私の借金払いが出来た時に、神様が初めてみすを奉らして下さったという感じである。ですからみすというのは、そういう意味に頂かなければならんだろう。その汽車の車窓にですね、窓にみすがこう降りておる。
 みすが掛っておるから外は見えない。ですから自分の心の中にみすを上げて行かなければいけない。為に一心に縋らなければいけない、辛抱し抜かなければいけない、本気に修業に取り組まなければいけない、そして誰が見ても成程お道の信心を頂いてござるから違う、というだけではなくて。おかげを受けていきよんなさる姿というものを、誰もがそれを認めてくれるまでのおかげを受けなければ、みすを奉った事にならない。
 信心はしござるけれども、借金は何時まっでもござる。信心なしござるけれども、うちはいつもブツブツいいござる。自分自身とても矢張りどうしておかげ受けきらんじゃろかと言う様に、自分の心を汚してしまう。そう言う事では、おかげにならんと言う事が分かります。私はあまり皆んなが椛目という、まあ金光大神の打ち立てられた所の、金光道という天地を貫く軌道に乗っておる所の舟に、いや汽車に乗っとりましても。
 おかげを頂いていってもです。矢張りみすを奉らなければ、生き生きした更な信心は出来ないと言う事を感じます。車窓から見る所の、それこそ廻り燈篭の絵のような風物というものが、自分の眼の中に飛び込んで来ない旅は楽しい。よしそれが天恩を発動致しましてもです。そこに光を頂かなければです、真っ暗な暗澹たるいわば汽車の旅なんです。明るい所に出ても、ただそこを通り抜けたというだけです。
 あの暗いトンネルの時代であったと思われるような、真っ暗い思いをするような、難儀な思いをする。そりゃ今トンネルの中にあるのです。そこにお互い信心の光というものがパッと点る時にです、トンネルの中も又楽しいのである。あのトンネルを通る時にこういう光を頂いたんだ。こういう力を頂いたんだと言う様な、おかげを自分の身につけていかなければいけない。
 そしてまた今日抜けた、広野原に出ると言う様なおかげになってくる。しかもそれは限りなく天地の大道をまっしぐらに、進んで行く所の、私は軌道であり又、私共の信心がそれでなからなければならない。信心はしておってもみすがあがっていない、電気の点っていない、真っ暗な箱ん中におるのは、それは丁度ソ連に抑留をされておった人達がです。右か左か分からない、どこに行っとるのか分からない、いわば真っ暗な貨車の中に、暗澹たる毎日を過ごしたような、そういう信心では信心頂いとる値打ちが無い。
 そこで限りなく美しゅうなりましょうやというのが、椛目の合い言葉。限りなく美しゅう成る為には、先ず自分が先ず、を落とさなければいけない。それを改まるという。垢を落としたなら、それを磨かなければいけない。信心は日々の改まりが第一なんだ。信心とは本心の玉を磨くものぞやとこう仰る。そこん所にその問題を通して、磨いていき改まっていき、そしてそれを愈々有難く美しい心を持って、教えをもって、それを化粧していく所に、限りない美しい心というものが育っていく。
 限りなく美しゅうなろうや。問題が起こったとき。例えば三人なら三人での問題が起こった時。二人なら二人での問題が起こった時に、その三人の者がです限りなく美しゅうなろうやといったら、問題は解決するのだ。いや三人じゃないその中の一人がです、なら我情をはなし我慾をはなし、限りなく美しい心をもってそれを、いわば良い判断を下すならばです。問題はたちどころに解決するのです。
 皆んなが我情があり我欲があるから、この問題が愈々問題が問題をよんで行く様な結果になっていくのです。そういう例えば私共は信心の稽古をです、本気でさして頂いて折角、乗り合わせたその汽車がです。その車窓から眺める所の、その風物景色というものがです。矢張り一時でも同じ所が無い変わってくる、だからこそ私の心の中に日に日に生きるが信心なりという。成程日に日に生きて行く事、その事が信心なのだと。
 日に日に生きて行くと言う事がそのまま、私の心の中に喜びを与えてくれる。はあ変わった景色だ、はあここは素晴らしい景色だとそう思う心なのだ、生き生きとした心とは。それがどうでしょう同じ所ばっかり貨物列車に乗っておる、その貨物の真っ暗いその箱の中ばっかり眺めておったんではです、新な心がおこる訳がない。自分の心が愈々腐っていくだけなのだ。腐った心に私はおかげの芽が出る筈はないと私は思う。
 自分の心が生き生きとして、自分の心がです多少でも良い、自分の心が本気で改まろうと。本気で限りなく美しゅうなろうと意欲する所にです。車窓のみすが全部上ってしまわなくてもです、少しは空いていく訳なんです。少しずつこれが上がっていくのである。そのいわば、車窓から眺める所の、更な風物というものがです、私共の心の中に更な喜びを、又与えて下さる。
 私は日に日に生きるが信心というが、どういう意味の事か 私自身が分からなかった。力強い言葉だなあとは思うておった。けれども今日の御理解頂いて、始めてははあ日に日に生きると言う事は、日に日に更な心をもって、しかも限りなく邁進しとる所の、いわば、の徳の車に乗らして頂いとらなければです、日に日に生きるが信心という、実感は頂けんのだ、分からんのだと言う様な事を分からして頂いた。
   どうぞ。